道迷いの繰り言 その続き

旧 道迷いの繰り言 移行作業のみ実施

 こころをさなき世界のために―親鸞から学ぶ「地球幼年期」のメソッド (新書y)  森達也 著 (2)

でもね、僕をオウム擁護だといって批判する人たちは、僕にとってはある意味でありがたい存在です。一番の敵は、関心を示さない人たちです。オウムなんて見たくもないという人や、もうウンザリという人たちですね。本当はそういう人たちにこそ黙り込む荒木浩を見て考えてほしいのだけど、あのシーンの成否は別として、たぶん、この願いはかなっていないでしょう。

 森氏が投げた「A」というボールを、ほとんどの人は受け取っていない(DVDを買えない自分も含めて(微苦笑))。受け取ってしまえば、それをどう評価するにせよ、自分の中のオウムの認識が大きく揺れることがわかっているから。
 では、なぜ揺らしたくないのか?オウム真理教が、多くの理不尽な凶悪殺人事件を起こしたのはほぼ間違いのない事実である。しかし、「殺人集団」の構成員は「凶悪かつ攻撃的」であるという等式は、必ずしも成り立たない事はよくわかっているはずなのに。それでも社会が「凶悪かつ攻撃的な構成員(信徒)」の認識を揺らしてみることすら、許さないのは一体何故?
 その理由を、森氏は本の中で「社会の側の視点が固定されている」からと書く。マスコミ、評論、ネット、その他のメディアは常に悪を裁く視点から時事を描く。そして受け手はその視点を共有し、そのことに疑問を抱かない。そして疑問を抱かせるような異物の存在には、目もくれない。もし疑問を抱けば、社会から孤立した存在になってしまう(少なくともそんな気がする)から、と。

 では視点の固定をもたらすものは何か?

 そこまで考えたとき、自分は絶望に誘われる。人の「やさしさ」こそ、それなのでは無かろうか?
「人を傷つけたくない」
「人に優しくしたい」
そんな思いが有るからこそ、凶悪な殺人事件の犯人と、自分が同じ人間であるという可能性を排除したくなるのではないのか。
・・・文の収拾がつかなくなってしまいました。とりあえずここまでで、終わります(尻切れトンボだな・・)。