道迷いの繰り言 その続き

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1/26日のエントリのコメントへの返答

まず、J様、れびれび様の両名に、誠実なコメントを頂いたお礼を改めて申し上げます。

その返答として、以下のエントリをもって自分の見解を述べたいと思います。

まず****氏の生き方に関する見解とそれに依拠する批判について。

 私としては****氏の生き方の善し悪しを評価する事はしていません。****氏の来歴について正確に知っているわけでは無し、また知っていたとしても自分は****氏自身(その内面)を知らないので評価は不可能だ、と考えるからです。尤も、これは私の主観による判断であり、れびれび様の主観による判断(この生き方は醜悪だ)も当然有りうるものだと思います。ただし、****氏本人を知らない(つまり氏の心情やら言葉にできない思いを知りえる立場にない)、さらには利害関係にすらない人が、本人の個人的な問題に属する事柄(エントリ中「個人圏」)に批判を表明する事には強い疑問を感じています。これは批判の対象者が著名人か否かには依りません。
 
 なぜなら、「個人圏」での問題はその中の人間にしか、真に理解し得ないと考えるからです。外部の主観(「公共の道徳」もこれに属します)から見て如何に醜悪、非道に見える事象でも、当事者にとっては無くてはならない物である、なんてことはそこら中にあふれています。手前勝手な話、私のエロゲー趣味(・・・)は自分にとってそこそこ大事なものですが、人によっては存在すら許されない邪悪なものに見える可能性は当然あります。ですが、見ず知らずの他人から「私(あるいは我々)にとってそれは邪悪だ」という理由で、私の(そこそこ)大事な趣味を批判される筋合いは(原則として)無いはずです。同様に、「私はこのような生き方をしてきた、私はそれをこのように考えている」という****氏の内心を、それが「醜悪に見えるから」という理由で第三者が批判することは(簡単には)出来ないのではないでしょうか。完全に蛇足ながら、自分は「相手を死に追いやるかもしれないがそれでもその人を愛したい」「誰かに迷惑を掛けるかもしれないがそれでも〜したい」という思いそれ自体はそう醜悪であるとは思いません(あくまで私の主観として)。
 
 れびれび様の言われる「負担を強いられる周囲」、自分の言う「家族、パートナー、子供、(書いていないが)その他利害関係者(社会は含まれません。これについては後述)」が****氏を批判するのは、私は理解できます。彼らにとって、****氏の「個人圏」は彼ら自身の「個人圏」と間違いなく干渉するからです。彼らには、自身の「個人圏」と****氏の「個人圏」が望ましくない衝突をしたと(彼ら自身が)判断した場合、批判も含めた対話により、自身と****氏の「個人圏」同士を共存可能な程度にまで改変しあう権利があります。そうでなければ誰も自分の「個人圏」を保てなくなります。しかし、ここで第三者が「こいつの「個人圏」は(私、我々の、社会の)道徳に反している」という理由で、****氏の「個人圏」の改変を(つまり批判)を行えばどうなるでしょう。それこそ誰も自分の「個人圏」を保てなくなるのではないのでしょうか。
 
次いで社会の負担に関して
 
 さて、各人の「個人圏」の中には「私は皆の中でこういう事がしたい」「私は皆がこうするべきだと主張したい」「私が生きようとしたら、〜人が死んでしまうがそれでも生きたい(まあ、極端ですが)」等の、本来その人と関係のない第三者に影響が及ぶ問題や、「私は気心しれた相手と仲良く殺し合いがしたい(これも極端ですが)」「一人で社会道徳に反することをしたい」「自殺したい」等の、その人(達)しか関わっていないが実現されるとちょっと困る(かもしれない)問題、も含まれます。各人がそのような領域を持つことは、上記の理由ゆえ誰にも否定は出来ません。そしてこれらの問題に対し、皆が納得いく範囲での「個人圏」の改変を各人に強制する仕組みが「社会(公共)」であり、そのルールブックが法や公共道徳だと、私は考えます。
 
 その社会を形成する個人が「皆がこうするべきだ」と主張したとき、その主張は影響を受ける人間の批判の対象になりえます。仮に****氏が「私はこのような生き方をしてきた。それを私はこう思う」ではなく「私はこのような生き方をしてきた。それを皆は私と同様に、こう思うべきだ」とはっきり主張したのであれば、「それは私の道徳に反するからそうすべきではない」と批判することは可能であり、それは社会にとり必要でしょう(ただし、****氏が社会の構成員である以上、その批判は****氏の「個人圏」の調整のみを目的にすべきであり、「喪男道」管理人氏の罵詈雑言は明らかにそれを逸脱しています)。しかし、****氏は「自分の生き方に賛同せよ」と本当に主張したのでしょうか?
 
 また、J様のコメント内
 》行動自体は完全に個人のものではありますが、本を出版するなどして支持され、
HIVキャリアの方々の先頭に立っているであろう人」としての行動としては大問題《

という主張について、「大問題だから****氏は指導者をやめるべき」などの主張であれば、J様個人の「社会的主張」として正当性があると思います。しかし「大問題だから****氏は自身の生き方を恥じるべきだ」という主張はもろに「個人圏」の過剰な侵害になるのではないでしょうか。例えば殺人犯が「〜を殺したことは私の誇りだ」みたいな主張をしたのでれば、被害者親族などの「個人圏」を守るなどの理由で「その生き方を恥じよ」と、無力な個人に代わって社会が批判することは(ある程度は)正当性を持ちえると思いますが、****氏が自分の人生を誇ることにより、氏と無関係の第三者の「個人圏」が犯されるのでしょうか?
 
 れびれび様の「****氏(及び氏と合意して性交渉を行い感染した方)は自業自得だから、彼らへの社会負担は不当だ」という主張は貴方個人の「社会的主張」として大いに正当性があると、私は思います。さらにはこれまでの自分の主張のちゃぶ台返しですが、「こんな「個人圏」なんてものを認めるから「個」がのさばり、公共心が廃れるのだ。公共の道徳と法は個人に厳密に適用されるべき」という主張も正当であると考えます。その上で私は私個人の主張として、以下のように主張します。
 「誰だってとんでもないミスをしたり、許しがたい罪を犯したり、皆に軽蔑されるような行動をする可能性がある。『自分なら絶対やらない』なんてことも他人にとってはそうではないかもしれないし、逆も然り。(少なくとも自分は)そういう愚かしさを持つ人間だからこそ、『この野郎は気にくわないなあ』『馬鹿じゃないの、こんなの自業自得だ。なんでこんな奴を俺が・・』なんてブツブツ言いながらも、みんなが支えあう社会が『良き社会』なのではないか。」
 (うわ〜、我ながらさすがにアレなものを感じる)
 
以上をもって両氏へのコメントへの返答とさせて頂きます。ご意見等ございましたら、コメントいただけると幸いです。