道迷いの繰り言 その続き

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 最強の扇動者

小説作家の石田衣良氏について、Wikipediaの項目に悪質なデマが書き込まれているらしい件に関するこちらのエントリコメント欄より

>id:medapan (言うまでも無く自分)

〜〜編集履歴を見ると無関係な言葉の挿入など、記述の信頼性を落とすような内容が多く見られ、「情報の流布」よりもネタとしての盛り上がりが編集の目的になっているようです。・・実在人物の名誉毀損までネタにするとは・・。


>id:kaien(親エントリの作者さん)


〜〜
というか、実在人物の名誉毀損ほどおもしろいネタはないのでしょう。他人を傷つけるからこそおもしろい。有名人をばかにできるからこそおもしろい。真実なんてどうでもいいのかもしれません。真実は必ずしもおもしろくないですからね。

・・・合理的な推測である。

というか、あの編集履歴を見た時点でこれが確信犯的なデマゴーグでない事は薄々には感じていた。認めたくなかっただけである。自分は「他人への批判、さらには中傷にはある程度以上のリスクが有る」という、ネットにおいては最早お笑いでしかない認識をどこか無意識に持っていたのだろう。


ただこのコメント欄に書いた内容は、自分が衝撃を受けた事象を正確には反映していない。「実在人物の名誉毀損をネタにする事」の存在自体は自分の知識としてすでにあった。真に衝撃的だったのは「誰も本気では信じていない、さらに本気で拡散させる意思もないデマの発生」があり得る事だった。


この騒動において、自分はどこかに「本気でデマを撒こうとする信念をもつ(言わば)テロリスト」が居るものと無意識に考えていた。デマ自体は短時間の調査ですぐに捏造とわかる下らない情報だが、拡散に成功すれば石田氏への嫌がらせ程度にはなり得る。情報が捏造であると知りつつも、石田氏への攻撃を目的としてデマを発信する人間がどこかにいるものと自分は思い込んでいた。しかし、発信源の人間(達)の目的は石田氏への攻撃ではなく、捏造された情報を肴に身内で盛り上がる事であった。デマの伝達者のみならず、その発信源にまで信念がないことが自分には衝撃的だったのだ。


過去の経験からネットにおけるデマの伝達者には少なからぬ割合で、そのデマの根拠が不明瞭であることを自覚しつつも、それが自分にとって心地よい内容であるからという理由で伝達をやめない者がいる事は知っていた。つまり「本気でデマを伝達する意思がない」のである。そしてここに
「本気でデマを発信する意思が無い」発信源が存在する。

そのデマが拡散するとどうなるか。
誰も本当の事とは思っていない情報(しかも実在人物の名誉・生命に関わるそれ)が、誰も本気で広めようとする意思の存在しないまま、各員の軽いイタズラ感覚で広く世間に拡散し、状況しだいでは重大な結果になりかねない、という事になりはしないか。

しかもこの拡散過程は、阻止することが大変に困難である。いくら情報がデマである事を証明しても、発信源も伝達者もそれを承知の上で拡散を続けるのだから。それこそ「ネタにマジレスカコワルイ」とか、反吐のでそうな言い訳が帰ってくるだけだろう。扇動の手法としては理想的とも言える。


杞憂であればいい。あるいは逆に「何を今さら」の常識的なことなのかもしれない。どちらにせよ、自分はこう言いたい。


「言葉を軽んじるのもいい加減にしてくれ」と。


参考
米公文書公開、「百人斬り」訴訟高裁判決、そして「ネタのシニシズム」再び(Apes! Not Monkeys! )

匿名という空間は自分が「2ちゃんねらー」と「ROM」という二重人格でいることを保障する(J& blog)